Home
ジャニメコレクション
日本の抒情詩
ほのぼの10秒アニメ
3つの違いを探せ!
セセンタ村物語
Flash実験室
酒肴懐石
醤油大好き!
不思議な日本語
豪州人は味音痴?
料理はパズル
◆ いろいろLink
◆ 今日の運勢
◆ カッパどんへMail
回想エッセイ
今は昔、私は仕事の関係で日本とオーストラリアを行き来していたことがある。
珍エピソードも多いが、中には人生観を変えた貴重な経験もある。
 日本人は鋭い味覚を持つ、という自負も加わって、オーストラリアに住む日本人の間では、オーストラリア人は味音痴だという定説が有った。
事実、私もオーストラリアの人たちと何度も食事を一緒にしたが、同じ事を感じていた。私にとってオーストラリアで食べた料理は、そのほとんどが薄味であったが、それは別としても、例えば、甘すぎる、辛すぎる、味がない、などと感じた時でも、彼らは「おいしい、おいしい」と言って食べているのだ。正直言って、半分バカにしながら「フーン、やっぱり」と思っていた。

 ところが、オーストラリア人の友人夫婦が来日した時、私は自分が大変な間違いをしていることに気がついた。

 朝一番で待合場所に現れたご夫妻は、まだ朝食前であった。時間的にもオープンしているレストランはまだなかったので、近くの喫茶店でモーニングサービスを食べることにした。
モーニングサービスと言えば、トーストに、卵、一切れのハムと少量の野菜がコーヒーに添えられているのが相場。私の感覚ではモーニングとは、新聞片手に空腹を満たす為だけに食べるもので、料理としての位置付けはなかった。
従って味を吟味したことはない。

 ところが、ところがである。およそ料理とは言えない、また誉める必要もないこのモーニングでも、ご夫妻はフォークを口に運ぶ度に「おいしいネ! おいしいネ!」と笑顔でうなづきあっているのだ。 この瞬間、私は今まで自分が感じていたことは間違いであることに気づき、大変なショックを覚えた。 そして今までの自分を恥じた。

 彼らは味音痴なのかも知れない。或いはそうではないのかも知れない。が、そんな事はどうでも良いのだ。どんなものでも「おいしい」と感じて食べることが大切なことを知っているのだ。

 それまでの私のように、味を批評しながら食べるのと、何でもおいしいと感じて食べるのと、どちらが本当においしいのだろうか?
 どちらが満足感を得られるのであろうか?
 どちらが食べる幸せを感じるのであろうか?
 私はゴールドコーストこそは世界一のリゾートであると思っていながらも、「真のリゾート」とはなんなのだろうと考えていたことがある。

 バブルの絶頂期には、リゾートという言葉が日本中を駆け巡っていた。そんな時、ある出版社が全国規模で、リゾートに関するアンケートをしたことがあった。
 その中に「あなたにとって一番のリゾートとはどこですか?」という質問があった。 そのアンケートには、「リゾート」の定義が付記されていた。それには「現在の環境とは違う、心が安らぐ憧れの場所」とあった。ハワイ、グアムなどの有名地に混じり、山頂とか森の中という答えが有り、なるほどと思った。ところが、地方に住む人たちの集計で1位になったのは驚くところであった。
なんと「大都市のデパート」であったのだ。

 ある日、オーストラリア人の友人から週末にキャンプに行こうと誘われた。場所は海岸からすぐ近くに見える小さな無人島であるという。私は多少の不安を感じながらも、喜んで誘いにのった。

その週末、テントと、多少の食料とワイン、それに釣り道具を持って、ボートに乗った。 時計と、携帯電話は、家に置いていった。楽しみたいのなら、置いてくるようにと言われていたからだ。
島に着くと早速酒盛りが始まった。楽しい会話を肴に、おいしいワインを傾け、時間は過ぎていった。気がつくと、辺りは暗くなり、酔いも回ってきたので寝る事にした。何時に寝たのかは分からない。翌朝、差し込む太陽の光で目が覚めた。これまた何時なのかは分からない。浜辺で釣り糸を垂らすと、20センチ位のひし形をした魚が面白いように釣れた。朝食はこれを塩焼きにして食べた。

 後から考えてみると、この1日の経験は私にとって大きな出来事であった。この経験で始めて気がついた事があった。「現代人は気がつかないうちに、目に見えない色々なものに縛られて生活をしている」という事だった。時計やタイマーで時間に縛られ、電話やテレビで電波に縛られているのだ。

 そんな文明の利器が全くない生活。暗くなったら寝る。 明るくなったら起きる。現代人が縛られている全てのものから開放されたひととき、私にとって、真からリラックスできた、これぞ「究極のリゾート」であった。
 シドニーでオリンピックが開催され、原住民であるアボリジニーが脚光を浴びた。

 ところで、「アボリジニー」とは、人種や部族の名称ではない。「アボリジニー」の意味は「原住民」そのものなのである。これは外部の人間が、彼らを呼ぶ言葉であり、彼らの言葉ではない。従って、「アイヌ人」は「私はアイヌです」と言うが、アボリジニーが「私はアボリジニーです」とは言わない。

 ついでに、「カンガルー」という言葉であるが、これも変わっている。
キャプテン・クックが始めてオーストラリアに足を踏み入れた時、草原をピョンピョンと跳ね回る動物がいた。始めて見るその動物を指差して、クックは原住民に尋ねた。
 「あれは、何と言う動物なのか?」
原住民はこう答えた。
 「カンガルー」

 原住民の言葉で、カンガルーは、「分からない」という意味だったのだ。
 オーストラリアでは、近海でマグロが採れるが、あまり食べる習慣はないらしい。

 最初に訪れた頃、たまに魚屋にマグロの固まりが置いてあるのを見つけると、在住する日本人は先を争って買いに行ったものだ。 それも日本のそれに比べるとタダ同然の値段であった。その内、その魚屋も分かってきたらしく、店先にマグロが並ぶ機会が多くなり、そして徐々に値段が上がっていった。需要と供給の関係である。

 鶏の尾に近い部位に軟骨がある。日本では串に刺して焼き鳥にする。
オーストラリアで炉端焼きの店を出していた時、視察する為に、材料を仕入れていた鶏肉専門問屋を訪れた。 
 鶏の解体を見学していたら、なんとその軟骨部分は全部ゴミ箱に捨てていたのである。「スープにするから別けてもらいたい」と申し入れたら、「タダでいいよ」とサービスしてくれた。店に持ち帰って、串に刺し、焼き鳥として並べたら、アッという間に売り切れてしまった。

 その後も、他のものと一緒に軟骨を注文すると、いつも無料で持ってきてくれた。 しかし、あまりに頻繁に注文するものだから、そこの社長が不思議に思って、どんなスープなのかと、ある日試食をしたいと来店した。この時点でタダの軟骨を商品として売っていることがバレてしまった。
その時、社長はただ笑っていたが、次の注文からは、しっかりと伝票に載るようになってしまった。
需要と供給の関係である。
ページのトップへ戻る